人生にはいくつか忘れられない時間があってわたしにとっては、1995年1月17日。

大きな揺れで寝覚めたその日、テレビで燃える瓦礫の神戸の街を見た時、叩きのめされ絶望し、そこから私の本当の人生が始まった気がする。
大きな力の前には無力すぎる私達。

だけど自分の心が壊れそうになるから、何か人間にはできることがあるんだと、それを探しに毎週被災地に行った。

300名のリスニングボランティアを連れて、避難所を回って話を聴くのが私たちの役割。私たちカウンセラーは人間力とコミニュケーションの力のみで、避難所に入っていく。物資も運ぶ。配膳もする。お話を聞かせてもらう前に、一緒に身体を動かさないと専門家も何もない。

避難所で会った少女が自分の崩れた家を見て欲しいと手を引かれていくと、家などは形もなくそこには瓦礫の残骸と土。

ベニアの板を椅子がわりにして、その子の話をそこで聴いた。その時から暖かい部屋の中で相談者が来るのを待つだけのカウンセラーなんかなんの役にも立たないと思った。

ボランティアも社会の仕組みも福祉もその時は何もわからなかったけど、なによりも大切なことを私の心の根底に刻んでくれた阪神淡路の冬から春。あの年の冬は本当に寒かったな。

あの時の苦しさは、日本という社会の中で何かの力になったのだとどこかで信じていた時、10年前の東日本大震災が起こった。

自然災害は仕方ないと分かっていても、その後の自死やトラウマをどうして私たちは防げないのか、悔しくて仕方なかった。東北にまた毎週、通って今度は医療や行政の人たち支援する人たちを全力で支援させていただいた。

わたしがケアに回る事に加えて、支援する人たちに心理学の知識やスキルを!

それらが実践的であればあるほど多くの人たちが救われる。数百をこえる避難所で話を聞き、遺族会によんでいただいく日々。そこで分かったことがある。

お別れの悲しみはいつかは癒える。
だけど、助けられなかった後悔や自分を責める優しい想いが、その人を苦しませているということ。優しい人だからこそ心が壊れる。

だから、だから、なんとかしたいと願う。もう無力感や悲しみはあの阪神のあの時に流した涙で終わりにしたかった。

コロナ禍の中で自死の人たちの心のケアを最前線でしている全国心理業連合会。厚生労働省や自治体の相談窓口を担うSNSカウンセリング協議会の認定を受けたプロフェッショナル心理カウンセラーたちが今日もがんばってくれている。

もちろんそれだけではダメで、辻 由起子先生のような社会的に支援からもれる若者子どもたちと普段からリアルで関わりサポートする力も必要。
濱砂 圭子社長のように全国のママさんネットワークで地域で子育てを支援する活動にもカウンセラーとして関わる。

大久保 洋子一龍斎春水先生のように、エンターテインメントの人たちに声をかけながら講談という伝統芸能を通じて多くの生きる力を伝えていくことも大事。
鬼滅の刃の癒しの音楽とお声で勇気を与えてくれる中川 奈美さんの活動も。

コロナ禍の中で、人々の心が壊れそうになるのを全力でこうして支えておられる沢山の尊敬する方々にあれから沢山出会えました。幸せなことです。

日々たくさん教えてもらっています。
まだまた力不足で、何もできない私ではありますが、頑張ってますよ!これからも頑張りますよ!と、、、

あの時に天に召された阪神淡路の沢山の魂たちに伝えたい。

「俺、神戸の高校で震災の時、卒業式とかできなくて。だけどあの時たくさんの人に支えられたから自分も社会の役にいつか立てたらいいなって思っていたんです」と10年前に東北の被災地で会った青年たちとは「うちら阪神淡路の同窓生だね」と笑い合った。

「やっぱね、生き残らせてもうたからね。なんか役に立つ事せななぁ」と。

今のコロナ禍の中で卒業式できなかった子どもたちも、将来、生き残った事の意味を感じ、いい社会を作ろうと願えるようにしていくのは私たち大人の責任です。
あれからもう四半世紀。

私はどれだけ辛いことがあっても、2度と無力感ではなかないと決めた。
まだまだ私にはやることがある。

できることもある。それがあるうちはどれだけつらくてもまだイケる。
人間には助け合い、いたわりあえるそんな心があるのだと、それを証明して見せると、阪神淡路の天に召された魂たちに約束したから。
見ていてください。

コロナなんかに人間は負けません。
心まで壊されたりはしません。
改めて誓います。 
だからどうぞ安らかに。
天から見守っていてください。

↓米山 矩和さんの素晴らしいお写真より。
無力感で泣くことはなくても美しい風景に感動して、涙が出ることはあります😊