今から28年も前になるので、生まれてない人も記憶のない人も居ると思う。
この日、私の地元関西でとても大きな地震がありました。

明け方。どすんという揺れで目が覚め、体験したことのない縦揺れ。
震源地の神戸では、高速道路が落下し、空に稲光のような閃光が光り、神戸の友人はこの世の終わりの景色とはこんなものかと思ったそうです。

多くの木造家屋が倒壊し、多くの人が下敷きになり閉じ込められ、そこに火事が襲いました。地獄のようなその景色。
今でも跡地の匂いが忘れられません。

私が被災地にはいったときは、電車がまだ架線が復旧できておらず歩いて行きました。

大きな段ボールに入れたカートを引いて、赤ちゃんのミルクを作るペットボトル、離乳食など、現地の人が欲しいとメッセージをくれたものを持って、避難所を回りました。寒い寒い冬でした。

避難所では、生き残ったおばあちゃんが「私が死ねばよかった.若い人が死んでしまって悲しい」と泣き崩れていました。
せっかく生きた命を、保つことができない悲劇、、、。

心のケアが至るところで必要でした。

罪悪感が人の心を蝕むことを身をもって感じましたし、心が参ってしまったら、生きていけないことも感じました.
大きな大きな悲しみや悲惨な出来事は、私たちに生々しくいろんな人間の姿を見せつけるけれど。

そこからわずかでも、希望が生まれることを私は信じたい。
最後の仮設住宅がなくなるまで神戸を回ったあの寒い寒い冬からもう28年。

あの時の高校生は、成人して東日本大震災のボランティアに行き、6歳だった女の子はもう6歳の子ども持つママになっている。
そして私はこの神戸の体験の後、災害などの心のケアの支援をすることを人生のライフワークとしたのです。

三宅島全島避難、ニューヨーク同時多発テロ(ニューヨーク現地にて)東日本大震災、西日本豪雨、大阪地震、熊本地震、、関東を襲った台風被害、、、
そしていま、ウクライナの避難民の皆様の心のケア。

どれだけ悲惨な歴史を積み重ねて、そこから何かを学んだつもりでも、人は自分の経験値で心の痛みを感じてしまう。
だから私たちには、ウクライナの戦争で痛みを感じている人をなくすことができない。

だから、ただ、話を聞いて寄り添って。
リラックスできる環境を整えて、暖かくお迎えすることしかできない。

そして、やがて、近い未来に、、。
今のウクライナの避難民の人たちが、これからの世界を何かしら支える人たちになっていくのだと私は信じたい。

神戸の避難所で、セキセイインコと一緒に避難していたおばさん。インコはストレスで羽が全部抜けてみんなに噛み付いていたけれど、私は鳥が大好きなので「あー、この子もストレスたまったよねー、よしよし優しい子だね」と声をかけたら、そのおばさんが初めて笑ってくれた。

痛みのある時はそんな小さな言葉が、染み込んでくることってあるじゃないですか。
私たち日本人は知っていますよね。

理不尽にいろんなものを全て奪われるその絶望と、それでもその場をなんとか凌いで生きていくことを。
それがやがて前を向く時間につながることを。

誰よりも、痛みを知っているはずです。
頑張らなくてもいい、今をなんとか凌げばいい時もある。

私の原点はそこにあります。そして今のウクライナの支援へと長い長い時間はつながってきたのです。
あのセキセイインコのおばさん、元気かな?

私たちのところに来てくれる、ウクライナの人たちの笑顔に触れながら、いつも思い出すのは、寒い寒い冬の中の阪神のひとたちの笑顔の姿です。
⬇️東日本大震災のあとは、各家庭の泥かきをしながら家族の話を聞きました。